ヒノエがまだ熊野別当になる前。まだ可愛らしい声をしていた頃。
弁慶は、京で荒法師呼ばれているとは思えない出で立ちで熊野の地へと戻ってきた。
望美が白龍に導かれてやってくる8年前。
春の熊野。
穏やかな天気。にも関わらず、弁慶は部屋にこもって薬の数々と戯れていた。
熊野は山、川、海と揃っていて、薬草を集めるには都合のいい場所だ。
明日にでも摘みに行こうかと考えている時だった。
廊下をものすごい勢いで駆けて来る足音がする。
「弁慶!弁慶――!」
聞き慣れた甥の声だが、最近聞くことのなかった興奮した調子で僕を呼ぶ。
「どうしたんです?」
姿は見えないが、声に向かって問う。
「こいつを……こいつを助けてくれよ!」
声とともに現れたのは、必死な表情で、今にも泣き出しそうなヒノエだった。
両手で包むように持つ布の中には一羽の小鳥。
布には血が滲み、小鳥はぐったりとその体を横たえていた。
体は丸々としていたが、羽はまだ飛べるほど大きくない。片翼はいびつな形をしていて、そこから出血しているようだ。
他の動物に襲われて、片翼を失ったのだろう。
鳥にとって翼は命ほど大切なものだ。命は助かったとしても、片翼が無ければ生きてはゆけないだろうに。
それに翼を失うこと自体が身体にとって致命傷になる。
これほど出血しているのなら、失血死する可能性が高い。
「……助けろと言われても」
どうにもならないこともあると、分かって欲しかった。
「アンタ薬師だろ!コイツはまだいきてるんだ!――――アンタしかいないんだよ……!」
弁慶に縋るヒノエは、涙で瞳を濡らして彼を見つめる。
「……。大きな声は出さないでください。小鳥が驚きます」
きっと悲しむことになる。
分かっていたけれど、ヒノエの思うようにさせてみないと解ってもらえないと、弁慶は小鳥の手当てをはじめた。
酉の刻
春の日は長いが、それも次第に傾いて西の海に落ちようとしていた。
「どうですか?」
じっと小鳥に寄り添うようにしていたヒノエに弁慶が声をかける。
できる限りのことはしたから、あとは祈るしかない。
「どうもなにも、ぴくりとも動かないよ…」
あれから幾刻か経っていたが、小鳥は一度も自分で動くことはなかった。
弁慶は小鳥にそっと手を伸ばし、
そして
「――。……残念ながら、もう…」
一言だけ、そう告げた。
今日、偶然見つけたキズついた小鳥だった。
ただかわいそうだったから、どうにか助からないかと……。
オレはいつの間にか必死になってた。
だけど
弁慶は始めから分かっていたんだ。助からないと。
どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
どうして、涙が止まらないんだろう。
小さな丸い体を両手に包んで赤く染まる空を見上げる。
まだ空を飛んだことのない、小鳥の羽毛を少しだけ切って、夕暮れの風に乗せて飛ばした。
「……おまえ…飛べたんだよ……」
東の空へと飛んでいく羽毛は、すぐに涙で滲んで見えなくなった。
小鳥の願いは、叶っただろうか―――。
きっと……